個性は尊重すべき。でも「ありきたり」も愛すべき。
考えていけば結局臨機応変で好きにしようってことになりますね。
個性。
出る杭を打つのではなく、伸ばすということも考えられるようになってきました。
私も、集団の中にいると変わっているとよく言われてしまいます。
でも、変わっているって何なんでしょうね。
一人一人見ていけば、それぞれちょっと変わっているところってあると思うんです。
ついったでもどこかの誰かが言っていました。
「普通」とは、理想であると。
メジャーかマイナーかで変わっていると判断するのはもはやナンセンスなのでは?と、そこまででもないのになぜか周りに染まれない私は思うのです。
自分を押し殺さないから染まれないのかな。
でも、そこまでする必要は感じられません。
いくら自分を押し殺して集団に呑み込まれたって、きっとその集団は何かあれば簡単に私を吐き出してしまうだろうし。
受け入れてくれる集まりは、私がどうであったって受け入れてくれるものです。
守ってくれない場所で無理をしたって、意味がないのは分かりきっていることです。
利益のないことはあまり好きじゃないんです。
でも、そこまで突出して変わっている人もなかなかいませんよね。
私も、いくつかの小さな集まりの中ではおかしいと言われても、その集まりを構成する人間によってはとても常識的なひとに見られることがあります。
だから、「みんなちょっとおかしいところがいくつかはあって、それでも社会を動かすためにいろいろな決まりがあって、最低限それを守っている共生状態」が世界の実態だと思っています。
私はそのなかで、このくらいならよくあるという「ありきたり」を愛しています。
共感出来たり、誰にでも出来ることだったり、テンプレートだったり。
それが堅苦しい形式になると型になっちゃってうまく嵌れなくなるんですが。
よくある、よくある。
個性を尊重しつつもありきたりを愛せる、なんていう贅沢なことが贅沢でなくなればいいのにな。