サブローのメモ帳(仮)

駆け出しライターが書く練習として思いついたことを独断と偏見満載に語っています。ご連絡はracoon3buro@gmail.comまで。

「知識がないと話してはいけない」時代は終わる

私の学生時代でも、教授が言ってました。

「我々と話したければ同じだけ知識をつけろ」

 

しかし、そのような時代はまもなく終わりを迎えるでしょう。

いえ、すでに終わってるのかもしれません。

小学6年生が文房具についてまとめた本を出版したり、世界を股にかける親について回るこどもが才能に注目されたり。

動画サイトが脚光を浴びる少し前から若年層から才能が生まれることは増えていましたが、ここのところそれは非常に顕著になっています。

 

知識以上に熱意や才能が認められるようになってきているのです。

部分点の評価が細かく見てもらえるようになってきた、というようなところでしょうか。

それはつまり、生産性の低い行動を強制されることが減るということです。

 

多くの人間が部分点で評価されるようになるのはまだかなり時間がかかるでしょうが、いつかそれが当たり前になることを願っています。

 

”人間味”ってなによ?

人間味がない、とよく言われます。

目が笑ってない、感情が読めない、とも。

統計学的な占いでまで言われる始末!

”人間味”ってなんなのよ?

 

自分では感情のままに過ごしているつもりなのですが、なんだか機械的に感じられるよう。

最近はなんとなく分かってきました。

こうしてライティングなどでやり取りをしていると確かに、淡々とし過ぎていると感じられます。

文章で、顔文字や絵文字を使わなくても、なんだか彩りに溢れていて優しそうだったり面白そうだったりする方はいらっしゃいます。

私はかなり事務的。

だから落ちる提案も多いんだろうなと気づいたんですが、直そうとしてもこれがむずかしい!

華やかな文章を書ける人は、もしかしなくてもそういう修行を積んでいるのでしょう。

ああ、その修行、受けたい!

感動ものストーリーの使い方

感動ものストーリーはあまり好きじゃなかったんです。

嫌いではなく、見れば感動するんですが。

心が揺さぶられるとものすごく疲弊してしまって何もできなくなるので。

精神的にまで怠け者です。

30分アニメである、とってつけたような、クサイくらいの感動で十分。

 

ただ、いつまでもそれでいるのもどうなのかと考えてみました。

見たほうが勉強になることも多いだろうし、ずっと避けているわけにも行かないのではないか。

 

自分は置いておいて、まず人はなぜ感動ものを積極的に見るのかと考えてみました。

もしかして、みな心のもやもやを抱えていながら、昇華するために感動ものをみていたりするのかなと思い至りました。

 

私も。

ひとりでもやもやし続けていないで、し●ちゃんでも見てみようかな。

人々が買い叩きしないようにするにはどうしたらいいのか

私だけが買いたたきされてるということではありません。

相場を大幅に下回った価格で当然のように注文されるものが多すぎるのではないでしょうか。

外国では技術料というものを認めているらしいので、私も本格的にビジネス英語勉強して営業してみようかと考え始めてます。

 

ライティングもそうですが、デザイン関係もそうですね。

イラストもそうだし、とにかく目に見えない技術料というものが異常な安さで買いたたかれています。

ちょっと検索したらちゃんとしたホームページを1000~2000円で作ってくれなんて言ってるクライアントさんまでいる始末。

桁が2個も足りないってどういうこと?

 

こういった感覚が蔓延するのを防ぐには、どうすればよいのでしょうね。

そもそも、どうしてここまでになってしまったのでしょうか。

話し合いに意見を出さないのはコミュ障ではない説

ネット上では私もたまにチラチラごっこをして遊びます。

が、現実が絡む部分で思わせぶりにチラチラするのはやめておいた方がいい、と私は考えています。

あとネット上でも、何かのイベントなど計画を立てる現実的な話し合いではチラチラではなくしっかり意見として話した方がいいです。

 

何故か。

簡単な話、チラチラ…は何の意見でもないから。

せめて、出ている意見や提案について賛成か反対かくらいはしっかり言っておきましょう。

ハッキリ賛成か反対か決めることが出来なくても、どの部分には賛成反対とか、本当に本気でどちらの結果でもマジで不満はないとか、まとめ役の人に伝えないと。

自分ではなんとなく考えてることがちゃんとあると思うんですが、それはチラチラでは伝わらないのです。

 

聞かれていることに対して、チラチラしながら茶化したりはぐらかしたり。

それは「コミュ障」ではなくて、「話し合う気がそもそもないクズ」として受け取られてしまうんですね。

このブログではあまり強い言葉を使いたくないといつも考えて文章を打っていますが、今回は他に言葉を上手に見つけられなくて。

でも、そういうこと。

一つでもなにか自分から、自分の考えについて伝えましょう。

伝えるために言葉に表すと印象が悪くなると思われるかもしれませんが、違うのです。

引き延ばしてまるで表現する責任から逃げ続けているような態度の方が、よっぽど悪印象なのです。

意見を求めてきている人というのは、そもそも求めているので、何も与えられない方がマイナスです。

印象が悪くなることを恐れる気持ちは私も分かりますが、私の経験からするとそれで印象がよくなることもほぼありません。

何も生み出さなければ何も変わりません。当たり前です。

 

意見が特にないなら、「本当に意見はない」ということを伝えましょう。

「えー…?」チラチラ は意見がないという表現にはならないのです。

 

それで伝えたような気になってしまっている人でコミュ障だと自称する人がいますが、それはコミュ障とはちょっと違うのではないでしょうか。

 

野菜ジュースは意味がない?そんなこともないのでは。

一日分、一食分の野菜がうんぬんというジュースがあります。

栄養士の人たちや研究者の人たちからは、あれには食物繊維がほぼ含まれていないから一日分の野菜とは言えないという意見が多いですね。

わたしが見かけるのがそういう意見だけかもしれませんから、わかりませんが。

 

ただ、私は意味がないということもないのではないかなと思います。

私は野菜もそこそこ食べる方なので、全く野菜を食べなくて野菜ジュースをその代わりにしようとしている人たちとは立場が違うのですが。

私は手軽な葉野菜ばかり食べてしまって、野菜が偏ります。

レタス、キャベツ、タマネギ、ニンジン、ナス、モヤシ、ピーマン…このあたり。

ホウレンソウは足が早いからあまり食べません。

好きなんですが管理や下ごしらえが面倒で。

だから、食物繊維はそこそこなのかなと。

キノコや芋、海藻類もそれなりに食べます。

ただ、野菜のバランスがすこし偏っている。

 

私みたいな人間には、野菜ジュースも補助としてしっかり機能するんじゃないかなと思います。

一応野菜は食べてるけど、バランスがいまいちよくならないから、それを少し整える補助。

 

あとは、しょっぱいものを沢山食べてしまう人にも効果はあるんじゃないでしょうか。

野菜ジュースに含まれないのは、食物繊維とか、つぶして濾される過程で取り除かれたり壊れてしまうものだけということなので。

カリウムはしっかり含まれているはず。

ごめんなさい、飲み切って紙パックを捨ててしまったばかりなのでラベルの確認が出来ないんですが。

理科で習うことだしご存知の方も多いとは思いますが一応簡単に言うと、体の中の余分な塩分(ナトリウム)は、カリウムを摂取するとそのカリウムと交換されて外に排出されます。

カリウムも体内に多くなりすぎると体に良くないんですが、ナトリウムとカリウムがちょうどいいバランスであることは体にとってとても大切です。

 

野菜そのものを全然食べなくて、野菜ジュースをお手軽にその代わりにしようというと

物足りないかも知れませんが、意味がないということでもないんじゃないでしょうか。

 

野菜ジュース、オレンジのがおいしいぞと思ってのお話でした。

インスタントコーヒーにミルクはどれだけ入れるか

インスタントコーヒーを発明した人をほめたたえたい。

コーヒーか紅茶かと聞かれたら紅茶と答えますが、カフェオレとミルクティーは同じくらい好きです。

カフェオレをインスタントコーヒーで作るとき、こだわりの比率はありませんか?

 

私は小さじ1~2のインスタントコーヒーをマグ3分の1~2分の1ほどのお湯で溶き、あとは牛乳という割合が好きです。

前は出来る限り少なめのお湯で溶いて牛乳多めにしていました。

ここ数年はコーヒーが少し薄い方がしっくりきます。

 

ミルクティの、濃い目に入れた紅茶と牛乳の比率に幅はあまりありません。

カフェオレならではの遊びなのではないかと思います。

コーヒーの濃さ、牛乳の濃さ。

豆乳とかシロップ追加とか、スタバで長い呪文を唱えるのと同じようなカスタムもしようと思えば自宅でもできますね。

豆乳は何度かカフェオレに使ったことがありますが、調整豆乳だと変な風味になるので無調整豆乳の方がおいしいです。

 

一杯のカフェオレも、飲むだけでなく調合するところから楽しむと、より多く心の余裕が補充できるんじゃないでしょうか。